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【週刊読書人】わが国最初ともいうべき肺結核小説 (2008年3月28日号)(2008年3月28日)

わが国最初ともいうべき肺結核小説
病気の進行のありようをきめこまかく追跡

【週刊読書人】(2008年3月28日号)


戦前本の魅力活力魔力
紅野敏郎

――吉岡書籍店刊行の本――


坪内逍遙が『小説神髄』や『一読三嘆 当世書生気質』を刊行する前の段階で、大学(現在の東大)の理学部を卒業していた吉岡哲太郎が営んだ吉岡書籍店よりシリーズものの「新著百種」と名づけられた叢書が出ている。はじめは「一号読み切りの雑誌」と喧伝され、百科叢書的なものが構想されていたが、尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を第一号とした関係で、硯友社関係の作家が動員され、さらに森鴎外や幸田霧伴も加わり、このシリーズが、近代文学として徐々に成長していく明治の文学の発端となる要素を備えていき、今日もなお幾冊かは愛読されている。その「新著百種」の第六号が典型的な大正文士広津和郎の父広津柳浪の『残菊』である。いまから約百二十年前の一八八九年(明治二二)十月三十日刊、四六判、角背、紙装、一〇五ページ、定価一二銭。手にすればまことに粗末で質朴な造本だが、号外一冊あわせて全十八冊の「新著百種」、並べるとなかなか壮観。吉岡書籍店からはわが国最初の英語雑誌や教科書の類、それに紅葉ら中心の「文庫」という絵入の文学雑誌も出ていた。この時期の出版文化考察のマトとなる有力な広場を構築していたといってよかろう。

茲にお話いたす昔語。世の中に心細いと云ふて其時の様な事はなく、悲しさ名残惜しさも、また之に勝るものはありますまい。過し昔にあつた程の悌、今身に迫る苦艱、見ぬ世の覚束なさ―花ならば散ぎわ。あゝ、其時の私の心、想へば夢の様です。

右のように『残菊』の冒頭は言文一致体に近い書きかた。この点のみいえば『一読三嘆 当世書生気質』や二葉亭四迷の『浮雲』第一編よりも斬新な実験が試みられていた。主人公「私」(お香)の語りが軸。十九の春、「熱」が出、「痃嗽」が出、やがて「鮮血(まっか)な一塊の血」が出る。つまり肺を病む女性の物語なのである。のちの徳冨蘆花の『不如帰』の浪子は、結婚後肺病になった故に、婚家よりきびしく退けられる薄幸の女性として著名だが、それより十数年も早く、柳浪はわが国最初ともいうべき肺結核小説を書いていたのである。今日はなんでもなくなったかのような肺病を真正面に据え、その病気の進行のありようをきめこまかく追跡したのがこの『残菊』なのだ。テーマそのものは若干古風、しかし女性の不幸を肺病一点にしぼり込み、執拗に描ききった手腕は評価される。乳母も結婚した夫が、放蕩して家出、生れた子供も死んでしまうような不幸を背負っているという設定となっている。維新前までお香の父は、河内の国の郷士だったが、早く亡くなり、母は家名を汚すまいとして教育に力を入れる。上京して私塾を卒業、結婚するというコースは、明治初期の女性のいわば典型的な姿。夫は成績優秀、洋行というコース。子供も生れ、門徒信者の母も喜ぶ。そういう彼女の「履歴大要」がトントンと的確に語られ、描かれている。

武内桂舟や渡辺省亭らの挿絵も三葉挿入されているが、その挿絵が『浮雲』などと同じく江戸期の戯作の要素たっぷり、つまり近代の小説の挿絵にはなっていない。しかしこの混入、雑多性が、明治二十年前後の実態ともいうべきものなのである。肺結核は隠されていたのだが、あっという間に「一家の眉を頻卑ませる公の種」となり、隣近所、出入りの商人、それからそれへと伝わっていく。お香の病は一進一退、しかし気のふさぎは尋常ではない。ところが『不如帰』の浪子のように「家」をタテにしての理不尽きわまるイジメがこの作品にはない。明治の教育勅語のシメツケがまだ完備されていなかったこととも関係しよう。「家」のイジメは重くなく、病の進行そのもののみに全力が傾けられていく。衰弱、また衰弱、「石に喰ついた迚(とて)、命助らう望は毛もありません」とまで強調される。

夫がどういう目的の洋行なのか、夫の実態は…ということになると、この作品はほとんど情報を与えてくれない。不治の病と直面させるというテーマは、先駆性を感じさせるのだが、それをさらにもりあげ、もりたてる他の要素が投入されていない。そこに作品としての弱点はある。夫の帰朝を待ちに待つ妻を押し出すためか、周辺の伯母や従妹の見舞のくだりは実に悠調。末尾の「お香、気がついたか、今帰朝た(かえった)」という夫の声の直前までは、まっ暗な奈落に向って、ひたすら身もだえる妻のうめきが切々と描かれる。のちの柳浪の代表作「今戸心中」のような男女の哀れは伝わってこないが、早い段階での一人の人間のいのちと向きあう肉体の健気さにあらためて刺激を受ける。(こうの・としろう氏=早稲田大学名誉教授・日本近代文学専攻)

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