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【週刊読書人】道元禅師の生涯を描く (2007年10月19日号)(2007年10月19日)

週刊読書人(2007年10月19日号)
週刊読書人(2007年10月19日号)
立松和平氏インタビュー
道元禅師の生涯を描く
『道元禅師(上・下)』(東京書籍)刊行を機に

【週刊読書人】(2007年10月19日号)


小説を書くことが修行に
苦しさを突き抜けた向こうにあった楽しさ


日本の曹洞宗の開祖であり、『正法眼蔵』を著した道元を主人公とした小説作品は、これまでほとんど書かれることがなかったが、今回、立松和平氏による道元禅師の一生を描いた小説『道元禅師』(上「大宗国の空」・下「永平寺への道」)が東京書籍から刊行された。
曹洞宗の大本山である永平寺の機関誌に九年間という長い期間にわたって連載され、さらに単行本化にあたって原稿用紙一〇〇枚分の書き下ろしを加えたこの大部な作品の刊行を機に、著者の立松氏に作品および氏にとっての道元禅師や『正法眼蔵』についての話をうかがった。 (編集部)


――この小説は曹洞宗の大本山永平寺の機関誌である「笠松(さんしょう)」に九年の年月をかけて計百回連載されたものに、最終章の百枚を書き下ろして上下巻にまとめた二千百枚にもおよぶ大作ですが、そもそもの執筆のきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

立松 当時の「笠松」の編集長の熊谷忠興老師に執筆を依頼されたのが本当のきっかけです。初めは平成十四年が道元禅師七五〇年大遠忌で、記念の行事がたくさんあるから、それまでに小説を書き上げたいという計画だったんです。それで書き始めたのが一九九八年の九月号からですから、五年もあれば書き上がるのではないかという予想だったんですね。でも丁寧に作品を書いていたら、大遠忌の時点では半分ぐらいしか出来ませんでした。

依頼された時には正直言ってまことに雲を掴むような話でしたので僕も悩みましたが、それでもやろうと思って執筆することにしました。ただ始めたのはいいけれども何を書いていいか全然分からない。もちろんいろいろ調べたり参考文献も読みましたが、道元という人の思想は難解で深いから、『正法眼蔵』を読んでもそう簡単に右から左に理解出来るようなものでもない。どうしていいか分からなかったですね。もちろん『正法眼蔵』は最大の資料ですから何度も読みましたし、幾種類もの現代語訳も読みましたが、簡単には分からせてくれません。それでも何度も読んでいると時々分かったような気にはなるわけです。「小さいさとりは数知れず」という言い方がありますが、そういうことの連続で無数の小さいさとりを重ねていくような感じが実感でしたね。例えば巨大な山脈を登っていると、あそこが天辺だなと下から見える時がある。それであそこまで行けばいいんだと気合いを入れ直して登っていって、そこに着いたら実はその先が遠くにあるといった繰り返しでした。また道元は自分の過去や日常のことを語ってこなかったですから、とにかく分からないところが多いのです。

――その点では小説にするのは非常に難しかったのではないですか。

立松
 難しいけれども、史実としては分からない所があるからこそ小説にすべきなのでしょうね。研究書では分からない部分は空白になってその生涯は連続していないけれど、小説は連続し一貫していることに意味があって、一人の人格がこの世に生を享けて大人になってさとりを得てやがて死んでいく流れを書くことが重要なんです。

――この小説には道元が生まれた時から亡くなる直前まで付き従った右門という語り部が出て来ます。この右門の語りと、三人称での記述が交互に出て来て物語が展開していきますが、この構成はどのような意図でなされたのでしょうか。

立松 道元が自分のことをひとつひとつ説明するのも変だし、分からない部分などを右門の語りで進めていくかたちにしたのですね。

――右門は同時に『正法眼蔵』分かりやすく解説する役割も担っていますね。

立松 ええ。実は僕が先に進めず困った時にいろいろと教えてくれた郡司博道老師という方がいらしたのです。道元が師の如浄禅師に私的な居室である方丈に教えを請いに訪ねてもいいかと手紙を出したら、袈裟を着けても着けなくてもいつでも来なさい、私はあなたを息子の無礼を許すように許すだろうと返事を返したという話がありますが、その話のように郡司老師は昼でも夜でもいつでも来いと言ってくれたので、しょっちゅう会って教えを請うていたんです。この連載の途中に亡くなられてしまったのですが。ですから右門は郡司老師であり、また僕でもあるのです。

しかしこの道元を書くというのは冒険で、分からないことが多くて本当に苦しい作品でした。僕も書き手とすればベテランですから普通二十枚ぐらいはひょいと書けちゃいますが、この小説に限っては本当に苦しかった。でもこれは自分が高い境地にいくための修行なんだ、修行だったら苦しいのは当たり前じゃないかと思ったら、それからは苦しいということで悩むことはなくなりましたね。そこに行くまでの道は遠かったですけど。それからは毎月初めに道元禅師と会っていろいろ話すような気分ですごく楽しくなりました。

小説のために勉強をしたり、暇を見ては道元の歩いた道を辿るということもしてきました。道元禅師が修行した中国の天童寺や阿育王寺などにも何度も行っています。またどこに行くのでも『正法眼蔵』をリュックサックの中に入れておきました。今でもその習慣は変わりませんが、そうしていると自分がどんどん変わっていくのが分かるんです。教えについてここまで調べて勉強し修行をつづけていくと当然影響を受けますね。優れた人と交われば香りが移るとか、霧の中を行けば衣が湿るとかいった意味のことを道元は語っていますけれど、本当にそういう感じでしたね。だから僕は連載の途中からこの作品の最後を書き上げるまで死にたくない、死ぬのならこれを全部書いて死のうと思いましたね。そんな気持ちになったのは初めてです。終わっても全然死ぬ気配はないですが(笑)。

――道元禅師が入寂される場面を描くまでは成し遂げたいと。

立松 ええ。それは僕自身の人生の修行でもあるわけだから、きちっと道元禅師の生涯を書き記してその道を歩き通したいと切実に思いました。だから終わりの頃になると、逆に今度は寂しくてね。だってもう九年やってきたわけですから。準備などを入れると十年ですよ。大体十年ぐらいかかって一つのことをずっと考えて作業をするということは案外ないでしょう。それがどんどん終わりに近づいて来るんですよ。連載の終わりになってきて、なにかこう大切なものが無くなってしまうような感じがしましたね。

それまでこれを書いている過程でいろんなことがあったんです。勉強するために多くの人と会ったし、七五〇年大遠忌で歌舞伎をやろうという話がなんとなく盛り上がってきて、それで書いた「道元の月」という台本もありました。そういった副産物もあったなかで小説が終わっていく寂しさがありました。

「光、万象を呑む」
真理は隠されることなくすべてを包む


立松 そんな折りに永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山で横浜鶴見の總持寺の板橋禅師と対談する機会があったんです。そこで曹洞宗の長い歴史の中で少なくとも二人さとった人がいるという話になって、一人はもちろん間違いなく道元禅師なのだけれど、もう一人が良寛さんだと板橋禅師はおっしやるわけです。道元の教えは、ひたすら貧に耐え、無常迅速、生死事大、時はたちまち過ぎ去るから生き死にを極めることが人生のうちでもっとも大切だという思想でしょう。その『正法眼蔵』の世界を生涯をかけて実現していったのは良寛さんだと。僕もなるほどそうだと思いましたね。寺もなければ、僧の階位もない。仏教に関る物書きは必ず良寛を書きたくなるという俗説があるんだけど、僕は冗談じゃないそんなことはないだろうと思っていたのに、やっぱり良寛が書きたくなっちゃった(笑)。それで実は今「大法輪」という雑誌で書いています。だから道元禅師を書き終えた寂しさは、今はそちらを書くことによってあまりないんです。

★たてまつ・わへい氏は作家。早大卒。著書に「遠雷」「春雷」「卵洗い」「毒―風聞・田中正造」「恩寵の谷」「酪農家族」「光の雨」「道元という生き方」「軍曹かく戦わず」「知床森と海の祈り」「立松和平 日本を歩く(全7巻)」「不憫惚れ」「百霊峰巡礼 第一集」「救世 聖徳太子御口伝」「晩年」「二荒」など。一九四七(昭和22)年生。


★つづきは、「週刊読書人」2007年10月19日号をご覧ください。


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