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【週刊読書人】 日本の歴史や文化への大きな視点 (2007年8月24日号)(2007年8月24日)

- 週刊読書人(2007年8月24日号)
対談=中村健之助・鈴木範久
日本の歴史や文化への大きな視点
『宣教師ニコライの全目記』全9巻(教文餌)刊行の意義
【週刊読書人】(2007年8月24日号)
教文館から中村健之介監修『宣教師ニコライの全日記』全9巻が刊行された。これは「ニコライ堂」でその名が知られるロシア正教会宣教師、日本ハリストス正教会の創建者ニコライ・カサートキンの四〇年間にわたる日記である。ニコライは、一八六一年(文久元)七月、二五歳の時、函館ロシア領事館付司祭として来日し、日本で五〇年間宣教に励んだが、日記は、長い間、関東大震災で焼失したものと思われていた。しかし、一九七九年九月、レニンクラード(現サンクト・ペテルブルグ)の中央国立歴史古文書館に「日本のニコライ」の日記三〇冊が保管されているのを大妻女子大学教授の中村健之介氏がつきとめた。中村氏は二〇〇四年三月、全日記ロシア語版5巻をロシア、サンクト・ペテルブルグのギペリオン社から刊行し、さらに共訳した日本語版の監修に当ったが、立教大学名誉教授の鈴木範久氏と、日記刊行の意義について語りあってもらった。(編集部)
隈なく日本全国を歩く
土地の故事、来歴も記したニコライ
――この度、教文館から中村先生の監修で、『宣教師ニコライの全日記』(全9巻)が刊行されました。関東大震災で焼失したと思われていたニコライの日記を、一九七九年に中村先生がサンクト・ペテルブルグの古文書館で発見されたそうですが、どのような経緯で発見されたのですか。
中村 日本の正教会では、ニコライが日記をつけていたことは知られていたのですが、関東大震災で湮滅したと正教会内部でも思っていた。私自身もそう思い込んでいました。私が『ニコライの見た幕末の日本』という講談社学術文庫を訳出し、それが日本人が初めてニコライの書いたものを読む文献になったわけです。日記が存在しているということは、私自身も知らなかったのです。たまたまロシアに行って、教会を巡っては、日本のニコライさんについて尋ねていましたら、ある教会で、ニコライの日記がロシアにあると聞いたことがあるというおじいさんに出会った。それを聞いたものですから、今度はその日記を知らないかと言って、ソ連時代のあちこちのロシア正教会各地を訪ね始め、ペテルブルグの神学大学で、ロシア正教会の神学者たちがニコライの日記のある場所を知っていることはわかった。しかし、誰もそのことを尋ねなかったんですね。
――現物をご覧になったときは感動されましたか。
中村 正直言ってまだそのときは日記の意義なんてわからなかったんですよ。ドストエフスキーの妻アンナ宛の手紙に、日本のニコライを訪ねたという個所があり、ニコライに会って非常に感激したと書いてある。それでニコライの方はどうだったんだろうかなという疑問が起きた。しかし、そのニコライの感想がどこに書いてあるかは、日記の存在そのものを知らなかったわけですから、わからなかったのです。それで、一九七九年九月に、日記が保管されていた古文書館に行って出してもらって、一八八〇年六月一日のところを開いてみたわけですね。ドストエフスキーと会った日だけはわかっていますから。しかし、手書きですからなかなか読めない。それからが苦労でしたね。ロシア人の古文書学者を探してまず判読からはじめました。ドストエフスキーは手紙でこう言っている、じゃあニコライはどうだったのか。初めはそれがなんとかわかれば僕としてはよかったわけです。そこを翻訳して、朝日新聞に発表したんです。ドストエフスキーとニコライが会ってこんな話をしているというので評判になった。しかし、それはほんの小さなエピソードだった。五十年の日本滞在のうちの四十年間の日記には、ドストエフスキーとの出会いなどを超える大きなことがたくさんあったわけですね。
――ドストエフスキー研究の側からニコライの日記に近づかれたわけですね。
中村 そうです。ですから、三十巻本ドストエフスキー全集の妻アンナ宛の手紙の日本のニコライと会ったという個所の注釈に、日本人研究者の中村がニコライ側の日記を発見して、ニコライはこう言っていると書かれています。ドストエフスキーがニコライ堂のニコライと日本人のことを話し合っているというので、観念的な捉え方ばかりされてきたドストエフスキーが僕らに身近になりますね。
――そういう経緯で見つけ出されたニコライの全日記が今回日本語に訳されたわけですね。鈴木先生は、内村鑑三がニコライを評価していたとお書きになっていますけど、日本のキリスト教研究の立場からニコライの日記の意義はどのようにお考えですか。
鈴木 プロテスタント史やカトリック史をやって地方にキリスト教が始まった頃から手探りを入れていきますと、たいていのところでギリシャ正教があったという記事に出合います。これはひとつの統計ですが、一八八○年現在の日本のキリスト教信徒統計では、カトリックは隠れキリシタンの復活がありますから、二万三千人と書いてあるけど、あまりあてになりません。二番目はハリストス教会で六千人。そしてプロテスタントはわずかに四千人ですね。ですから、明治十年代までは日本では九州の一部の隠れキリシタン、復活キリシタンの地方を除くとプロテスタント以上にハリストス(ロシア正教でキリストの意)がかなり早く行き渡っていた。それはなぜだろうと思いますね。その秘密が今回の日記との出合いによって、ある程度はわかったような感じがしましたね。ニコライはかなり農村を歩いていますね。しかも同じところへ二度も三度も行っています。例えば私の地元の岡崎のケースで言いますと、子供の頃に聞いた徳川家康の「産湯の井戸」という記事まで書いている。今は岡崎公園の中心にあって、私も何度も見ているわけです。そしてその近くの矢作川での藤吉郎と蜂須賀小六との出会いの話とか。別のところにも明治維新頃に廃仏毀釈が徹底されて東本願寺の坊さんたちが決起し反対運動をするんですね。お寺が二十くらい一つにされてしまう。その頃来ていた平田篤胤系の役人が、平田篤胤神学の影響もあって、あんまりいろんな神を拝むなということを言うわけです。そうすると、人々の間に、その役人は耶蘇だという噂が広まるんですね。余計に仏教の信徒は反乱に勢いをつけるわけです。そういう噂もちゃんと書き込んでいますね。びっくりしました。宮本常一さんの『忘れられた日本人』のように、ニコライも隈なく全国を歩いて、他の地域のニュースを伝える役を結構していたんじゃないですかね。
中村 おっしゃるように実にくわしく書いていますね。筆まめですね。
鈴木 量的にも一日がすごいですね。
中村 旅に出ると特に長いですね。その土地の故事、来歴をよく知っています。旅の途中で何を読んでいるかというと、日本語で大岡越前の物語とか由井正雪の物語を読んでいる。
鈴木 いわゆる講談ですよね。(2面につづく)
★ニコライ・カサートキンは、十八三六年に生まれ、一八六〇年ペテルブルグ神学大学を卒業し、ニコライという名を与えられ、函館ロシア領事館付司祭に任命され、六一年に函館に到着。木村謙斎、新島襄などについて日本語、日本史を学ぶ。六八年(明治元)にキリシタン禁制下、沢辺琢磨ら三人に洗礼を授ける。七〇年日本宣教団(日本伝道会社)を設立、団長に任命される。七二年東京神田駿河台(現在のニコライ堂の地)に宣教団本部(本会)を設立。七四年日本人伝教者を集めて初めての布教会議を行う。八○年主教となりドストエフスキーと会う。八一年から九八年にかけ、上州、東北地方、九州、中国、関西、東海道、信濃、盛岡、福島、北海道などを巡回。一九〇六年大主教となり、一二年(明治45)死去、谷中墓地に埋葬される。一九七〇年ロシア正教会において聖人に列せられる。
★なかむら・けんのすけ氏は大妻女子大学教授・ロシア文学・日露交流史専攻。東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻博士謀程中退。著書に「ドストエフスキー・作家の誕生」「ドストエフスキー・生と死の感覚」「宣教師ニコライと明治日本」など。一九三九(昭和14)年生。
★すずき・のりひさ氏は立教大学名誉教授・日本宗教史・日本キリスト教史専攻。東京大学大学院人文科学研究科宗教学宗教史学専攻。博士課程修了。著書に「内村鑑三」「現代人の心と仏教」「内村鑑三選集」(編)など。一九三五(昭和10)年生。
★つづきは、「週刊読書人」8/24号をご覧ください。
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日本の歴史や文化への大きな視点
『宣教師ニコライの全目記』全9巻(教文餌)刊行の意義
【週刊読書人】(2007年8月24日号)
教文館から中村健之介監修『宣教師ニコライの全日記』全9巻が刊行された。これは「ニコライ堂」でその名が知られるロシア正教会宣教師、日本ハリストス正教会の創建者ニコライ・カサートキンの四〇年間にわたる日記である。ニコライは、一八六一年(文久元)七月、二五歳の時、函館ロシア領事館付司祭として来日し、日本で五〇年間宣教に励んだが、日記は、長い間、関東大震災で焼失したものと思われていた。しかし、一九七九年九月、レニンクラード(現サンクト・ペテルブルグ)の中央国立歴史古文書館に「日本のニコライ」の日記三〇冊が保管されているのを大妻女子大学教授の中村健之介氏がつきとめた。中村氏は二〇〇四年三月、全日記ロシア語版5巻をロシア、サンクト・ペテルブルグのギペリオン社から刊行し、さらに共訳した日本語版の監修に当ったが、立教大学名誉教授の鈴木範久氏と、日記刊行の意義について語りあってもらった。(編集部)
隈なく日本全国を歩く
土地の故事、来歴も記したニコライ
――この度、教文館から中村先生の監修で、『宣教師ニコライの全日記』(全9巻)が刊行されました。関東大震災で焼失したと思われていたニコライの日記を、一九七九年に中村先生がサンクト・ペテルブルグの古文書館で発見されたそうですが、どのような経緯で発見されたのですか。
中村 日本の正教会では、ニコライが日記をつけていたことは知られていたのですが、関東大震災で湮滅したと正教会内部でも思っていた。私自身もそう思い込んでいました。私が『ニコライの見た幕末の日本』という講談社学術文庫を訳出し、それが日本人が初めてニコライの書いたものを読む文献になったわけです。日記が存在しているということは、私自身も知らなかったのです。たまたまロシアに行って、教会を巡っては、日本のニコライさんについて尋ねていましたら、ある教会で、ニコライの日記がロシアにあると聞いたことがあるというおじいさんに出会った。それを聞いたものですから、今度はその日記を知らないかと言って、ソ連時代のあちこちのロシア正教会各地を訪ね始め、ペテルブルグの神学大学で、ロシア正教会の神学者たちがニコライの日記のある場所を知っていることはわかった。しかし、誰もそのことを尋ねなかったんですね。
――現物をご覧になったときは感動されましたか。
中村 正直言ってまだそのときは日記の意義なんてわからなかったんですよ。ドストエフスキーの妻アンナ宛の手紙に、日本のニコライを訪ねたという個所があり、ニコライに会って非常に感激したと書いてある。それでニコライの方はどうだったんだろうかなという疑問が起きた。しかし、そのニコライの感想がどこに書いてあるかは、日記の存在そのものを知らなかったわけですから、わからなかったのです。それで、一九七九年九月に、日記が保管されていた古文書館に行って出してもらって、一八八〇年六月一日のところを開いてみたわけですね。ドストエフスキーと会った日だけはわかっていますから。しかし、手書きですからなかなか読めない。それからが苦労でしたね。ロシア人の古文書学者を探してまず判読からはじめました。ドストエフスキーは手紙でこう言っている、じゃあニコライはどうだったのか。初めはそれがなんとかわかれば僕としてはよかったわけです。そこを翻訳して、朝日新聞に発表したんです。ドストエフスキーとニコライが会ってこんな話をしているというので評判になった。しかし、それはほんの小さなエピソードだった。五十年の日本滞在のうちの四十年間の日記には、ドストエフスキーとの出会いなどを超える大きなことがたくさんあったわけですね。
――ドストエフスキー研究の側からニコライの日記に近づかれたわけですね。
中村 そうです。ですから、三十巻本ドストエフスキー全集の妻アンナ宛の手紙の日本のニコライと会ったという個所の注釈に、日本人研究者の中村がニコライ側の日記を発見して、ニコライはこう言っていると書かれています。ドストエフスキーがニコライ堂のニコライと日本人のことを話し合っているというので、観念的な捉え方ばかりされてきたドストエフスキーが僕らに身近になりますね。
――そういう経緯で見つけ出されたニコライの全日記が今回日本語に訳されたわけですね。鈴木先生は、内村鑑三がニコライを評価していたとお書きになっていますけど、日本のキリスト教研究の立場からニコライの日記の意義はどのようにお考えですか。
鈴木 プロテスタント史やカトリック史をやって地方にキリスト教が始まった頃から手探りを入れていきますと、たいていのところでギリシャ正教があったという記事に出合います。これはひとつの統計ですが、一八八○年現在の日本のキリスト教信徒統計では、カトリックは隠れキリシタンの復活がありますから、二万三千人と書いてあるけど、あまりあてになりません。二番目はハリストス教会で六千人。そしてプロテスタントはわずかに四千人ですね。ですから、明治十年代までは日本では九州の一部の隠れキリシタン、復活キリシタンの地方を除くとプロテスタント以上にハリストス(ロシア正教でキリストの意)がかなり早く行き渡っていた。それはなぜだろうと思いますね。その秘密が今回の日記との出合いによって、ある程度はわかったような感じがしましたね。ニコライはかなり農村を歩いていますね。しかも同じところへ二度も三度も行っています。例えば私の地元の岡崎のケースで言いますと、子供の頃に聞いた徳川家康の「産湯の井戸」という記事まで書いている。今は岡崎公園の中心にあって、私も何度も見ているわけです。そしてその近くの矢作川での藤吉郎と蜂須賀小六との出会いの話とか。別のところにも明治維新頃に廃仏毀釈が徹底されて東本願寺の坊さんたちが決起し反対運動をするんですね。お寺が二十くらい一つにされてしまう。その頃来ていた平田篤胤系の役人が、平田篤胤神学の影響もあって、あんまりいろんな神を拝むなということを言うわけです。そうすると、人々の間に、その役人は耶蘇だという噂が広まるんですね。余計に仏教の信徒は反乱に勢いをつけるわけです。そういう噂もちゃんと書き込んでいますね。びっくりしました。宮本常一さんの『忘れられた日本人』のように、ニコライも隈なく全国を歩いて、他の地域のニュースを伝える役を結構していたんじゃないですかね。
中村 おっしゃるように実にくわしく書いていますね。筆まめですね。
鈴木 量的にも一日がすごいですね。
中村 旅に出ると特に長いですね。その土地の故事、来歴をよく知っています。旅の途中で何を読んでいるかというと、日本語で大岡越前の物語とか由井正雪の物語を読んでいる。
鈴木 いわゆる講談ですよね。(2面につづく)
★ニコライ・カサートキンは、十八三六年に生まれ、一八六〇年ペテルブルグ神学大学を卒業し、ニコライという名を与えられ、函館ロシア領事館付司祭に任命され、六一年に函館に到着。木村謙斎、新島襄などについて日本語、日本史を学ぶ。六八年(明治元)にキリシタン禁制下、沢辺琢磨ら三人に洗礼を授ける。七〇年日本宣教団(日本伝道会社)を設立、団長に任命される。七二年東京神田駿河台(現在のニコライ堂の地)に宣教団本部(本会)を設立。七四年日本人伝教者を集めて初めての布教会議を行う。八○年主教となりドストエフスキーと会う。八一年から九八年にかけ、上州、東北地方、九州、中国、関西、東海道、信濃、盛岡、福島、北海道などを巡回。一九〇六年大主教となり、一二年(明治45)死去、谷中墓地に埋葬される。一九七〇年ロシア正教会において聖人に列せられる。
★なかむら・けんのすけ氏は大妻女子大学教授・ロシア文学・日露交流史専攻。東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻博士謀程中退。著書に「ドストエフスキー・作家の誕生」「ドストエフスキー・生と死の感覚」「宣教師ニコライと明治日本」など。一九三九(昭和14)年生。
★すずき・のりひさ氏は立教大学名誉教授・日本宗教史・日本キリスト教史専攻。東京大学大学院人文科学研究科宗教学宗教史学専攻。博士課程修了。著書に「内村鑑三」「現代人の心と仏教」「内村鑑三選集」(編)など。一九三五(昭和10)年生。
★つづきは、「週刊読書人」8/24号をご覧ください。
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